やすのり先生の子育て回顧録(1)
コウノトリが幸せと試練を連れてきた……

イクメンは意地から生まれた?

女房は、出産後8週で仕事に戻りました。当時は、育休の制度もないし、そもそも休めるような雰囲気じゃない。妊娠中もマタハラ、パワハラも当たり前のようにあって、とても苦労していました。子どもができたからといって、女房も僕もまだまだ勉強が必要な若い医者でしたから、子どもが生まれて1年は義理のおふくろに子どもをみてもらっていました。

でも、僕は義母が結婚に反対していた過去があったから、ずっとこの人にみてもらうのは嫌だなと思っていた。今思えば間違いだったなって思うけど、若い頃って意地張るでしょ(笑)? それで、僕は自分で育てようと思ったんです。

娘が1歳のときに保育園に入園させて、僕も週2回は連れていっていました。今から36年も前のことだから、男性が保育園に行くなんてありえない。子どもはまだ歩くのが遅いからずっと抱っこしていってね。晴れの日はいいんだけど、雨の日は大変だった。抱っこして傘持って、大きなバッグを持って、手が変えられない(笑)。貧しくて車は2台買えず、女房が使う日には車で連れていくこともできませんでした。今みたいにいいベビーカーもないし、そもそも雨の日にベビーカーを使うなんて非常識な時代だった。

保育園に着いて子どもを預けると「これから仕事だ!」という気分になって、娘がワーッと泣いても、かわいそうという気はあまり起こりませんでしたね。

女房は当時、週に1度は当直があったから、そのとき娘は保母さんの家で泊まらせてもらっていました。僕が家にいられればよかったんですが、病院はそんなことを配慮してくれるはずもなく、休めなかった。

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子どもが熱を出したときも大変でした。義母のところに連れていくか、女房の兄夫婦のところに連れていくか。僕たちは横浜に住んでいて、義母は東京、兄夫婦は浦和だったから、夜何度も何度も高速道路を往復したこともありました。その2ヶ所がダメというときは、岐阜から僕の両親に来てもらったことも。最悪、それもできないときは、病院に入院させて。40℃くらい熱が出ている娘を待合室で抱きながら、先生が来るのを待っていたこともあったなぁ。今でもよく覚えていますね。

そして、娘が3歳になった頃、僕が浜松赤十字病院に行くことになって、女房、娘との別居が始まったんです。

つづく

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