
二人が帰国すると、娘は岐阜の両親のところ、女房は名古屋、僕はアメリカと3人家族なのにそれぞれが別のところに住んでいるという、別居生活になりました。1年経って僕が帰国し、女房と同じ、名古屋の藤田保健衛生大学での勤務が始まりました。夫婦は名古屋、子どもは岐阜で、なお別居生活が続きました。これは僕の両親が、まだ小学校低学年の娘が日中ひとりで家にいるのはかわいそうだと言ったから。だから妻は、土曜に名古屋に娘を連れてきて、日曜の夜には岐阜に連れて帰るという、そんな暮らしになりました。
娘が小学4年になって、ようやく名古屋で3人の生活を再開。アメリカでの3人暮らしから3年ぶりのことでしたね。
これで落ち着くかと思ったら、僕の人生はそうはいかないんですね(笑)。東京・三鷹の杏林大学に行くように教授から言われるわけです。今なら上司から命じられても断って、「じゃあ、やめます」という人も多いですが、あの時代はイエスしかない。単身上京しました。
「パパと一緒に住む!」で始まった父娘生活 登校拒否の苦労も
約1年後に子どもが中学入学のタイミングで、東京に引越しをして、女房の実家で暮らすようになりました。そして、中2になったときに「パパと住みたい」と言ってきて、娘との二人暮らしがスタートしました。「パパと……」と言われたときは、うれしかったですよ。それから、掃除、洗濯、料理とすべてを僕がやることになりました。仕事は相変わらず忙しかったので、お手伝いさんにもお願いしながら、工夫して娘と一緒に過ごす時間をつくったり。運動会や保護者参観など、学校行事は僕が全部行きましたよ。
そのうえ、学校に呼び出されることも年に5、6回あって。娘も親に注目してもらおうと必死だったんでしょうね。今から思えばたわいもないことですが、わざと悪さをしていたんです。まあ、中学の頃はそれくらいでかわいいものでしたが、高校生の頃はもっと大変でした。勉強はよくできる子でしたが、登校拒否になってね。拒食も過食もあったし。
僕が慶應の教授になってすぐの頃で、仕事で忙しいうえに、娘との関係がぎくしゃくしはじめて、かなり苦労しました。娘が規則正しい生活を送れるように、二人で公園に行って朝のラジオ体操に参加したりね。それから、僕は娘を駅まで送って、学校へ行くのを見届けてから、病院へ行っていました。でも、娘は駅から自宅に帰っていた。もうそんなことの繰り返しでした。
登校拒否の子には、「行けよ、頑張れよ」なんて絶対言えないですから。だから僕が言ったのは「頑張らないで、頑張って」っていう言葉。子育ては難しいと心の底から思ったのは、このときですね。
女房に「お前の育て方が悪いから、こういうことになるんだ!」と言ったこともありますよ。そしたら何て言われたと思います? 「学校なんて行きたくなかったら行かなくていいわよ」って言うんですよ(笑)。娘と一緒に暮らして矢面に立たされているのは僕だったから、無性に腹が立ってね。「だからお前のそういう態度がダメなんだ!」って返したりしたこともありました。
われわれのケースは、やっぱり特殊だからね。とくに娘が中学に入ってからは、私が家事と育児で、女房は何もしてないですから(笑)。女房が育てたのは2歳から4歳くらいまでと、小学4年から6年までくらい。僕は中学2年から、昨年娘が結婚するまでずっと一緒に暮らしていた。子育てがいちばん大変なときは僕でした。
(つづく)