連載「高橋たかお先生のなんでも相談室」 
「早くできるかどうかと才能があるかどうかは別問題です」

生まれ持った才能を発揮し、大人顔負けの活躍をする子どもたちがいます。そんな“特別な存在”を見聞きするにつけ、もしわが子にも才能があるなら少しでも早く見つけて伸ばしてあげたいとママ・パパは考えてしまいますね。では、どんな環境がそれを可能にするのでしょうか。

連載第8回目は、子どもの発達をうながす環境と子どもの才能の見つけ方・伸ばし方、言語能力との関係について、慶應義塾大学医学部小児科教授の高橋孝雄先生に質問してみました。

 

才能は子ども自身が見つけるもの

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担当編集I(以下、I):先日、わずか9歳で囲碁棋士のプロ試験に合格した女の子が注目を浴びましたが、彼女のように幼い頃から類まれなる才能を発揮して、活躍する子どもっていますよね。親としては自分の子どもに持って生まれた才能があるとしたら、それを早くに見つけて伸ばしてあげたいと思うものなのですが、先生はこういう早熟の天才についてはどうお考えでしょうか?

高橋先生:まず「発達と才能は別物」と考えてみると分かりやすいかも知れません。発達は段取り通りに進むべきもので、そのシナリオは遺伝子で決まっているものです。時期が来たら放っておいてもドミノ倒しのように順番に起こります。例えば、ほとんどの子が、まず首がすわって、次にお座りができるようになり、やがてつかまり立ちをしたら歩くようになりますよね。遺伝子によって固く守られたシナリオのようなものです。発達が他の子より多少早いか遅いかは、両親から受け継いだ遺伝子によって決まる部分が大きく、才能があるかないかとは別問題です。

I:では才能とは、なんなのでしょうか?

高橋先生:遺伝子が描くメインのシナリオ、つまり発達の進み方とは少し外れた、シナリオの余白のようなイメージでしょうか。余白のスペースがどれくらいあるのか、何を書き込むといい物語ができるのかは、誰にも分かりません。花開くその時までそっと隠れていて、自分自身にも分からないものが「才能」なのでは……いや、あらかじめ目標設定することができないからこそ才能といえるのかな。一方、発達はずっと見えやすく、予想しやすいものです。たとえば他の子より早く歩けるようになったとしても、それは発達であって才能ではありませんね。歩くという“マイルストーン”が早く訪れたか遅く訪れたかの違いにすぎないわけです。

I:その子にとって隠れた能力こそ「才能」であるというわけですね。

高橋先生:ちょっと脱線しますが、生まれつき目の見えない方が音楽に秀でていたりすることはよくありますよね。これは、通常の発達で獲得されるべき機能の欠如、あるいはシナリオに空いた穴が、他の才能が開花できるように余白を大きくすると考えることができます。

I:なるほど。メインのシナリオになんらかの欠如があったことで、むしろ広い余白ができたかもしれない、と考えられるわけですね。親としては、その余白に無限の可能性を感じてしまいがちです。

高橋先生:親はそう感じるものかも知れませんね(笑)。ただ、親御さんに覚えておいていただきたいのは、子どもが持っている可能性、つまり、子どものシナリオの余白は子ども本人のために用意されているものだということ。自分で見つけて落書きするためにあるんですよ。親がその余白に勝手に書き込みをしたり、ましてや本文を加筆修正するなんて、やってはいけないと僕は思うんです。

I:言い換えると、才能をどう生かすかは、親ではなく本人が、本人の意思で決めるべきことであると?

高橋先生:はい。親にできることは、子どもに何か得意なことがあって「特別な才能があるかも」と思っても、とやかく口を出さないことです。これは絶対に守ったほうがいい。でも前にもお話したように、子どもの早期教育とか習い事とか、いろいろやらしてみることが悪いと言っているんじゃありませんよ。無駄でもいいから、やりたいと言ったことはやらせてみて、失敗してもまた次に挑戦すればいいんです。

I:そうですね。余白に何を書くか、自分で見つけるためにもいろいろな事にチャレンジするのは意味がありそうです。

高橋先生:そうそう。さらに言えば、いろいろな事にチャレンジしたという事実が大切です。ただ、誰もが何でもできるわけではなくて、家庭の経済事情にもかかわってきますし、時間にも限りがあります。あれもこれもは無理ですから。

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