10年前の3月11日、宮城県沖でマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、大きな揺れと大津波、火災によって多くの尊い命が失われました。人々の暮らしを一変させてしまった未曾有の大災害から10年。
ミキハウス出産準備サイトでは、読者のママ・パパが震災の記憶を新たにし、命の大切さと災害への備えを考える機会にしていただければと、地震当日に東北地方で出産をご経験されたご家族にご協力をお願いし、お話を伺いました。
前回の記事に続いて取材させていただいたのは、福島県福島市在住のK君のお母さまです。家族みんなが心待ちにしていた息子の誕生直後に起こった大地震と混乱の中で始まった子育て。大人たちの心配をよそに、のびのびと成長しているK君の姿は、コロナ禍で不安のつきない子育てに明るい光を投げかけてくれるようです。
あの時、支えてくれたみなさまのおかげで、今の私たちがある
ふたりの女の子に恵まれ、「男の子も育ててみたい」と願っていた私は、妊娠が分かった時、おなかの子を「ちびた」と呼ぶことにしました。家族中で誕生を楽しみにして、当時4歳だった長女は毎日のように私のおなかに向かって「ちびた、おねえちゃんだよー」と話しかけ、2歳の次女もそれを真似て声をあげていました。
でも「ちびた」は姉たちの声にはほとんど反応せず、夜寝つこうとする時にもぞもぞと動き始めるマイペースぶり。「私の関心を独り占めできる時間を知っているのかな」と考えたりしていたものです。
出産は上の子と同じ帝王切開と決まっていました。3月10日に夫と義母に子どもたちを頼んで入院し、出産前夜と当日の朝はひとりゆっくり静かな時間を満喫したように覚えています。主人が娘たちを連れて面会に来てくれて、「ママ、がんばって!」と娘たちの激励を受けて手術室に入った私。全身麻酔だったので、眠っている間に息子は無事に誕生し、夫と娘たちは生まれたばかりの赤ちゃんとの対面を終えていました。
あの大地震が起こったのは、病室に戻されて麻酔が切れはじめ、一瞬覚醒してはまた眠りに落ちるような感覚をくりかえしていた時です。
突然、ガタガタと大きい揺れが始まり、いつまでも続きました。停電で酸素マスクが止まってしまい、私は息苦しさと恐怖で声も出ません。娘たちの叫び声が聞こえているのに何もしてあげられないもどかしさ。起き上がれない体でただただ天井を見つめることしかできない無力感。せっかく生まれてきてくれた息子をこの手で抱くこともできないまま建物の下敷きになって、みんな死んでしまうのではないかという絶望も頭をよぎり、私はパニックに襲われていました。
揺れが収まってきた時、新生児室にいた息子の無事を確認した夫の声が聞こえましたが、それさえも信じることができないような気持ちでした。
「私の赤ちゃんを見せてください」
そう言いたかったけれど、病院は停電と断水で大混乱でした。わが子の安否を自分で確認できないまま夜を迎え、凍えるように寒い真っ暗な病室で繰り返す余震におびえながら、手術後の激痛に耐えました。
緊急車両のサイレンの音が絶え間なく聞こえてきて、絶望感がさらに募りました。息子の誕生を家族で喜び、希望と喜びに満ちているはずだった3月11日。世界は姿を変え、私は経験したこともない恐怖に襲われていたのです。
翌12日に停電が解消し、やっと息子を抱くことができました。生きていてくれてありがとう――心からそう思いましたが、すでに地震や津波で多くの命が失われていることを知っていましたので、そんな日に生まれたわが子の誕生を喜ぶことに罪悪感のようなものも感じていました…。
断水が解消されるまでの約1週間、看護師さんたちは給水所まで往復して飲料水を運び、井戸水を汲んでトイレを流してくれました。わが子の保育園や学校が休みになっても預け先を見つけて仕事に来てくれた看護師さん、ガソリンが手に入りにくくなり自転車で10kmの距離を通勤していた看護師さん、みんな恐怖と不安を抱えていたはずなのに、自分のことは後回しで私たちの命を守るために必死で頑張ってくださいました。あの時のことはどれだけ感謝しても感謝しきれない思いです。
病院の先生が帝王切開の予定日を3月11日に決めてくださったことで、あの瞬間、家族が同じ場所にいることができたのは本当にありがたかったと思っています。もしも幼い娘たちを連れて陣痛に耐えながら病院に向かう途中で地震が起きていたらどうなっていただろうと考えると、今でも体が震えます。
原発事故や物資不足を知って、水や粉ミルク、食料などをたくさん送ってくれた友だちもいました。私たち家族が今こうして暮らしているのは、震災後の混乱の中、私たちを支え、守ってくれたみなさんのおかげです。