東日本大震災から10年。
あの日生まれた赤ちゃんと家族の今 vol.2

2021.03.11

ミキハウス編集部

放射線の不安も徐々に解消され、子どもも元気に育っています

放射線の不安も徐々に解消され、子どもも元気に育っています

震災による停電や断水、物資不足も大変でしたが、原発事故後は目に見えない放射線への不安が街を覆いつくしました。福島市内の水道水からも放射性物質が検出され、息子のミルクはもちろん家族の口に入る水分はすべて市販のミネラルウォーターに頼らなくてはならない生活。子どもたちを外で遊ばせることもできません。

行政の除染工事を待たずに、夫とふたりで庭を掘り返して芝生を張り替え、砂場の砂も新しくしたのは、せめて自分の家の庭だけでも子どもたちが安心して遊べる場所にしたかったからです。

そんな私たちの心配をよそに息子はすくすくと成長していました。1歳になるころ、無垢材を使った手作りの椅子を地域で生まれた子どもたちに贈る活動をしていた北海道の「君の椅子プロジェクト」の方々から「希望の君の椅子」をいただきました。東日本大震災の被災地で震災の日に生まれた子どもたちに「君の居場所はここにあるからね」とプレゼントしてくださったのです。

私たちはこの椅子を「きみちゃん」と名付けました。息子は小さい頃、毎日この椅子に座って、おやつを食べたり、絵を描いたりしたものです。今でも台所でお手伝いをする時の踏み台として大切に使っています。

「君の椅子プロジェクト」の方々からいただいた「希望の君の椅子」

9歳現在 「きみちゃん」に座り読書するK君

当時息子は、娘たちがすることは何でも自分でやりたがり、特に食事を与えられることを嫌がりました。結局私が折れて、食事の時には床に新聞紙、テーブルにクロスを敷いて自由に食べさせることに。おぼつかない手つきでスプーンを握り、顔中ヨーグルトまみれになりながら食べていた姿や、いち早く自分の分を平らげると、椅子の安全ベルトをすり抜けておかわりをつかみ取る様子はわが子ながら衝撃的でした。

2歳のころ、幼児教室でのK君

2歳のころの幼児教室で

2~3歳になっても放射線を心配して、ほとんど家の中で遊ばせていました。目を離すと引き出しや扉の中の物を引っ張り出して遊ぶ息子のいたずらに困惑し、家具を移動させて危ない場所をふさいだこともあります。

屋外ですごす時間があまりに少ないので「子どもの発達に影響するのでは?」と心配しましたが、除染が進み徐々に外遊びができるようになると、あっという間に上手に外遊びをするようになった息子にそんな思いは吹き飛びました。

4歳のころのK君

4歳のころ。七五三でふたりのお姉さんと一緒に

幼稚園に通い始めると、早生まれの息子はお友だちの中でひときわ小柄で頼りなげに見えてちょっぴり心配でしたが、彼なりに着実に成長していきました。私が具合悪そうにしていると「大丈夫?」と声を掛ける娘たちを横目に、無言で冷蔵庫の果物をかき集めて串刺しにして「フルーツ焼き鳥だよ。食べて」と持ってきてくれたこともあります。いつも姉たちと違ったことをして親の関心を引こうとする姿は、おなかの中にいた頃と変わらないようで、微笑ましくもありました。

福島県には自宅から車で1時間ぐらい行けば大自然を満喫できる場所があちこちにあります。震災後しばらくは放射線の心配があり、郊外に出かけることは控えていましたが、5年前ぐらいから家族でスキーやキャンプに出かけるようになりました。子どもたちも大いに楽しんでいて、特に息子は今では火起こし名人として庭のBBQでも活躍してくれています。

次のページ 私たちが学んだことを、しっかりと伝えていきたい

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